ASDI  STORY




 


2008年4月16日


ある目的地に向かってバスに乗っていた。

とても複雑な気持ちで。



これから会いに行く人達に

どうやって話をすれば良いのか?

どこまで話をして良いのか?

悩んでいた。


そもそも会いに行くことが

間違っているかもしれない。


色々な思いが頭の中でめぐっていた。


すべては約10年以上前にさかのぼる・・・・・・・・



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1996年6月2日



当時の私は自分のお客さんや他のSHOPからも依頼され

週末になると一般ダイバーを車に乗せては

伊豆の海まで出かけていた。


その日も川崎にあるSHOPから依頼され

SHOPのオーナーとSHOPのスタッフ

そして私で

8名程のお客さんを連れ

小田原の先にある「福浦」と言う場所に来ていた。


天気は快晴

「福浦」の海には多くのダイバー達や釣り人達が

週末の海を楽しんでいた。



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ここは都内から比較的近くにあるので

日帰りには便利だが

海は濁っている時が多い

とくにこの日はひどく濁っていた。

潜って見ると

水中では3m先も見えないほどだった。


水中では引率するダイバー達を見失わないように

とても気を使ったことを覚えている。


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私達は予定のダイビングを無事に終えた。

いつものように使用した器材は水洗いして

水を切るために、干しておく。


ほどよくダイビング器材の水も切れ

私は駐車場でダイビング器材を車に片付けていた。


その時

女性の泣き叫ぶ声が聞こえた。


振り返るとダイビングスーツを着た1人の若い女性が

「誰か助けて下さい! 友達が溺れているんです!」


取り乱しながら叫んでいた。


「どこで溺れているんだ!」


彼女は泣きながら、100mほど先の防波堤を指差した。


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走っていくと

防波堤に数人の人だかりが見えた。

私は人だかりに分け入り

「どこで溺れているんだ!」と聞くと

「さっき、そこで沈んだ」

誰かが水面を指差した。



水面ではすでに

1人のダイバーがシュノーケルで

溺れたダイバーを見つけようとしている。



今日の濁りでは

「水面からは見つけられない」と思い

すぐに駐車場に走って戻り

そこに居たスタッフに支持し

器材とタンクを防波堤まで運び

私はそのまま海に飛び込み

器材は防波堤の上から投げ込ませた。



1秒でも早く見つけることが

生命にかかわることは分かっていた。



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投げ込まれた器材を手に取ると

装着しながら潜降した。


ほどんど見えない水中の中

沈んでいるテトラポットの上や下も見ながら

必死に探しながら進むとすぐに

白い影が見えた!


近づくと口からはレギュレーターがはずれ

静かに仰向けで倒れている女の子が居た。


最悪の状態だった。


すぐに彼女をつかみ

水面に向かった。


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水面に上がり

彼女のマスクを投げ捨て

すぐに蘇生を開始した。


足のつかない水面で行う蘇生は難しい。

口をふさぎ

彼女の鼻から息を吹き込むが

時よりうまく肺に流し込むことが出来なかった。


レスキュー訓練で「フー、フー」と

声を出すだけのシュミレーションと実際はかけ離れている。


それでも口から白い泡が吹き出した。

「助かるかもしれない」・・・・


蘇生を続けながら

「死ぬな!がんばれ!」

叫びならが彼女の胸を叩いた。



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水面から防波堤の高さは4m

彼女を引き上げる場所も手立ても無かった。


「早く船をよこしてくれ!」

防波堤の人だかりに怒鳴った。


防波堤の上には釣り人をはじめ

事故を知った多くの人が蘇生の様子を黙って見守っていた。


1人だけ

「死なないで!」

何度も泣き叫ぶ子が居た。


駐車場で助けを求めていた子だと思う。

私はその時

「多くの人が見ている」

「インストラクターとしてなんとか助けなければ」と思った。


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やっと船が向かって来た。

同時に遠くから向かって来る救急車のサイレンの音も聞こえる。


すぐに彼女を船に押し上げ

私も上げようとする船員に

「いいから早く行ってくれ!」と

自分を残したまま

船を出させた。


彼女を乗せた船と防波堤の人だかりは

救急車が来た港に向かい

しばらくすると

救急車は走り去っていった。



全てが静かになり

私は力が抜け

水面で仰向けに浮きながら

そらを見上げ

「助かってくれ」と願った。


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水面でしばらく休んでから陸に上がった。

田中氏が近寄って来て

「よくやった」と

私の肩を叩いた。


彼女が助かるか分からないので

その言葉を聞いて

複雑な思いだった。


二人で駐車場まで戻ると

「あれが担当していたインストラクターらしいぞ」

田中氏が言った。


見ると

白系のダイビングスーツを着た男性が

他のダイバーと時おり笑顔を見せながら

何事も無かったように話をしている。



そういえば

私が防波堤に走って行く時に

彼がフィンを持って歩いていた。


彼を追い抜かす時

その姿を見ながら

「この人も助けに行くのか?」

「それならなぜ歩いているのだろう?」

不思議な光景だったので

記憶に残っていた。


そのインストラクターの横には

彼女の潜水器材が置かれていた。

見るからに新品であり

これからのダイビングを夢見て

彼女が買った器材だろう。


その横で人事のように振舞っているインストラクターの姿に

あらためて腹立たしさを感じたが

詳しい状況も分からず

ましてや本当に担当インストラクターかも明確でなく

なにも言わずにいた。


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再び器材を片付け始めるとすぐに

消防署の人がやって来た。


救助者と言うことで連絡先を聞かれたので

田中氏のSHOPと個人の電話番号を教え

「彼女の安否だけでも教えて欲しい」とお願いした。

消防員の方は

「かならず連絡します」と

言ってくれた。



帰りの車中

お客さん達も事故のことがショックで

とても静かだった。



川崎のSHOPに着き

お客さん達は静かに解散していった。


SHOPはスタッフだけとなり

田中氏が事故について話しはじめた。


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田中氏が釣り人から聞いた話によると

彼女は防波堤の前で

溺れている様子で浮き沈みをしてたらしい。


そして防波堤の下にあったテトラポットにしがみ付き

レギュレーターを口から外し

「たすけて!」と言った瞬間

波に打たれ

つかんだ手がはがれて沈んでいったと。



想像だが

たぶんインストラクターとはぐれ

水中をさまよっている間に防波堤の方まで来てしまい

浮上しようとしたが上手くいかず

パニックに陥り

溺れながらも必死で防波堤にしがみ付いたのだろう。



もちろん

付けているウエイトを捨てるか

BCに空気を入れれば沈むことはない。


ダイバーなら誰でも分かることだが

経験のあさいダイバーが視界の悪い水中で

インストラクターとはぐれてしまえば

極度の不安でパニックに陥り

必死でもがくことしか出来ないことは

経験を積んだインストラクターなら

分かることである。


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そんな話をしていた時に

SHOPの電話が鳴った。

田中氏がでると

消防署からの電話で

「今、病院で呼吸が戻りました」との報告だった。


みんな喜び

私も思わず涙がこぼれた。


自分がしたことが

無駄にならなくて本当によかった。



「若いから、もう大丈夫だよ」

「タカノ君やったね、これは表彰状がもらえるよ」

そんな田中氏の言葉に

喜ぶ自分がいた。


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翌日の早朝

自宅の電話が鳴った。

時計を見ると朝の5時半だった。


「こんな時間に誰だろう?」

電話は消防署の人からだった。


「朝早くにすみません、消防署の者ですが」

「昨日救助していただいた方が、残念ながら今お亡くなりになりました」

と言われた。


助かると思い込んでいたので

とてもショックだった。

気持ちが落ち込んだ。


それから眠れず

彼女のことを考えている内に

せめてお線香だけでもあげたいと思った。



翌日

消防署に電話した。

「親族の連絡先は教えることは出来ませんが・・・・」

葬儀の日と場所は教えてくれた。


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二日後

私は彼女の葬儀が行われる会場に1人車で向かった。

葬儀場の施設は大きく

そこでは複数の葬儀が行われていた。


私は施設の駐車場に車を止め

他の葬儀を横目でみながら

彼女の葬儀が行われている場所に向かった。



近づくと

若い女の子達が泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

他の部屋では粛々と葬儀が行われる中

その部屋だけは

叫ぶような泣き声が外に響いていた。


彼女の葬儀の部屋だった。

中を見ると

多くの若い女の子達が棺の前で泣き叫んでいる。

今まで葬儀と言えば

ある程度年齢を経った方や、病気で亡くなった方しか経験がなく

若い女の子達が泣け叫ぶその光景に

ひどくショックを受け

足が止まった。



彼女を助けられなかった自分は

それ以上近寄ることが出来なくなった。



私はお線香もあげられずに

親族の方にも近寄れず

離れた場所から葬儀を見守ることしか出来なかった。



とうとう出棺の時間になり

最後に友人1人1人が彼女の眠る棺に

泣きながら花を添えはじめた。



花だけでもと思い

花を持って列にならんだ。


棺の中に花を添えるとき

たくさんの友人の花に包まれながら静かに眠る彼女の姿は

あまりにも若々しかった。



出棺する最後の最後まで

友人達の泣き叫ぶ声は途切れず

その叫びと

棺の中で眠る彼女の姿と

助けられなかった思いが

より重くのしかかり


私は誰にも何も言えずに

葬儀場を後にした。


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それ以来

防波堤の上で泣き叫ぶ友人の声

葬儀場で泣き叫ぶ友人達の声と姿

棺の中で眠る彼女の姿が頭から離れず



「もっと早く水中から引き上げることは出来なかったのか?」

「蘇生に失敗はなかったのか?」

自分を責めるようになった。

また

防波堤の上から見ている多くの人目を気にした自分

表彰状がもらえることに嬉しさを感じた自分に対して

人としての恥を強く感じていた。


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数日後・・・・・・・・

事故の参考人として

小田原の警察署に呼ばれた。


担当した警察の人はダイビングの経験はなく

事故に対してインストラクターの管理責任を問うために

ダイビングの基準ばかりを聞いていた。


会話の中では

消防員の方のような感情的な言葉もなく

ただ自分の事務処理を早く終わらせたい様子だった。


色々聞かれ

ようやく書類が書き終わると

もう帰ってよいと言われた。


帰り際

「あ!これ」

担当者が机の上に封筒をポンと投げた。


「何ですか?」

「交通費として2千円あげるから」と言われた。


帰りの車の中で

人の命の重みが

人や立場によって違うことに戸惑っていた。


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それから数日経って



今度は弁護士を名乗る人が

私のSHOPに尋ねてきた。


弁護士の話によると

彼女は初めに受けるダイビング・コース(OW)の講習中で

事故の日も

「親友と一緒に講習に行って来る♪」

そう両親に告げて出かけて行ったらしい。


しかし

担当したSHOPインストラクターは

「当日は午前中に講習を終え、午後は通常のダイビングでした」

「潜水中は離れないように注意していました」

「でも彼女が勝手に居なくなりました」

と言っているらしい。


すなわち

彼女が勝手に居なくなり

自分で勝手に溺れ

私には何の責任もありません

と言うことである。



彼女の両親は

インストラクターの言い分と

他人事の様に話す

インストラクターの態度に納得がいかず

弁護士を頼んで

訴訟を起こすことになったらしい。



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弁護士の話を聞いたとき

やはり彼が担当したインストラクターであったことを

理解した。



責任がある立場の人間が

ひとたび事故が起きたとき

本能的に

自分の管理責任を逃れる(回避する)るために

自分にはまったく責任や関係が無かったかの様に

振舞う発言や行動は

どんな分野でも

たまに聞いたり見たりする。



たぶん

駐車場で助けを求めた友人は

そんなインストラクターに不安を抱き

他の人に助けを求めたのかもしれない。


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訪れた弁護士は

被害者側の弁護士として当たり前だが

「ダイビングの基準に違反がなかったのか?」

警察の人と同じように

そればかりを聞いてきた。



一般的なダイビングの基準を一通り説明すると

同じインストラクターとして

今回の事故に対する意見も聞かれた。


たしかに初心者の事故に関しては

担当したインストラクターの質と経験が大きく関係することは事実である。

ましてや

私が現場で見た彼の行動と姿は

同じインストラクターとして許せないものがある。

しかし

事故が起きるまで

彼女に対してどの様に彼が対応していたのか?

見ていない私にとって

憶測と感情だけで

彼に責任があるとは言えなかった。


また

思い通りにならない不規則な自然と人間が

深く関係するダイビングで

基準を守れば事故が起きない保証もない。



私の回答に

弁護士は困った様子だった。



弁護士は最後に

「お手数ですが」

「場合によっては参考人として、出廷をお願いするかもしれませんので」

と言って

帰っていった。


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それから約1ヶ月後

弁護士から電話がかかって来た。

「先日はありがとうございました

現在まだ裁判中ですが

どうしても彼女のご両親がお会いしたいと言ってます」

「ただ

裁判が終了するまで

事故に関係する人達が直接会ったりすることは

あまり好ましくないので

余計な事は言わないで下さい」


と念を押された。


私は承諾して

彼女のご両親に会うことになった。


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約束の日

彼女のご両親が自分のSHOPまでやって来た。

私は店内に案内すると

用意してあった椅子に座ってもらった。


ご両親は初めに

「この度は娘を助けようとしてくれて

ありがとうございました」

と言われた。


それから母親が

ここに来た理由を話しはじめた。


「会いに来たのは

警察も消防署の人も弁護士でさへ

裁判中であるとの理由で

事故の詳細をあまり教えてくれず

最近になって助けようとした人が居たことを知りました」


「私達は

娘の最後の時をどうしても知りたくて

会いに来ました」


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私は知る限り

当時の状況を話し始めた



友達が泣きながら助けを求めたこと。

溺れながらテトラポットにしがみ付いたこと。

彼女が海底で沈んでいた姿

必死で蘇生をしたこと・・・・・・



ご両親は話を黙って聞いていたが

しだいに二人の目から涙がとめどなく流れはじめ

その姿を見ているうちに

私も涙が流れはじめた。



話を終え

私は最後に「娘さんの命を救うことができずに、すみませんでした」と

自分の思いを告げた。



お母さんは泣きながら

「話を聞かせてくれて、ありがとうございました」

「貴方には何の責任もありませんよ」

「娘を一生懸命、助けようとしてくれて本当にありがとう」

「あの子の意識は戻らなかったけど」

「あの子の亡くなる時に、そばに居てあげることができました」

そう言ってくれた。


私は

裁判が落ち着いたら

いつかお線香をあげに行きたいと言って

ご両親を見送った。


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私は担当したと思われるインストラクターの様子や

インストラクターに対する個人的な意見は

最後まで何も言わなかった。



話をすれば

感情的な表現や意見になり

その発言が

裁判に影響することが怖かった。


 

それから数日が経ったが、やはり自分の頭の中は事故の事が離れていなかった。そんなある日、夜中に目がさめた。

ぼんやりする頭の中で人の気配を感じる。

「誰だ?」彼女のことが頭から離れなかったからかもしれないが、その人の気配が彼女に感じてしょうがなかった。

私は事故のことを考えすぎているからだと自分に言い聞かせた。

以来、時おり彼女の気配で夜中に目が覚める日が続いた。

私はそれが霊的なものや、

ましてや彼女の気配であることを頭で否定ながらも、

自分が助けられなかったこと、そして助ける時に人の目を気にした事など、

「彼女はそれが許せずに私の所に来ている」とも考えていた。

同時に、「確かに自分は助けることが出来なかった、

助ける時に不純な自分もいた、

でも自分なりに助けようと必死で頑張った。

だから貴方が怨むのは私ではなく、

貴方を担当したインストラクターであるべきだ」と

彼女を怨むようにもなっていた。



彼女の気配は2年間続いた。

そんな夏のある日だった。

その日もまた彼女の気配を感じ夜中に目が覚めた。

しかしその気配は今までとは違いとても生々しく、

自分の足元と窓の間に彼女が立っている姿をとても強く感じた。

起き上がり、電気を点けることを恐怖に感じた。

動けず、うずくまりながら「もう勘弁してくれ!」と願った。



やっとの思いで、ベッドから立ち上がり部屋中の電気を点け、

息苦しさからバルコニーに出た。

夜の空に月が浮かび

月に照らされた雲がゆっくり流れていた。

空を見ながら大きく息を吸い、自分を落ち着かせた。

それから「いったい何なんだ!」と彼女に対する怒を覚えた。

以来、今まで以上に眠るのが怖くなった。しかし、この日を境に彼女の気配も姿も感じることがなくなった。



理屈では否定しながらも、いつ又、彼女が現れるかもしれない不安が10年続いた。

いつしか私はインストラクター候補生を指導する立場になっていたが、

指導中はもちろん、

私は誰にもあの事故にまつわる霊的な彼女の話を出来ずにいた。



霊的な話しをすれば変な人に思われるし、

人の命を助ける時に、人目を気にしていた自分を話すことになる。

それは人としてもインストラクターとしても、最低である自分のことを話すように感じていた。

心に重たい十字架を背負っている気分だった。

死ぬまで誰にも言えず、

この思いから開放されないのかと思っていた。



事故から10年以上が経った2006年の9月、

ある日妹からメールが来た。

妹とはしばらく会っていなかったが、いつも気にかけていた。

小さいころはいつも連れて歩き、妹が「イジメられた」と聞くと、イジメた対手を殴りに行ったことも良くあった。

自分にとって妹はいつも弱っちく心配な存在だった。

そんな妹とも自分が北海道の大学に行くことになり、実家を離れた頃から会う時間もしだいに少なった。

やがて、お互いに働く様になってからは、最近殆ど会う機会もなくなっていた。



そんな妹は母親から「今は洋菓子のお店で働いている」と聞いていた。

メールの内容は「元気ですか?

今度、私の知り合いの集まりがあるので

良かったら遊びに来てください♪」との事だった。

そしてメールの最後に「私の今の仕事です」と、

ホームページのアドレスが書いてあった。



私は何気なく、ホームページを開いてみた。するとそのホームページは心霊に関係するセミナー的なことが書かれていた。私はひどく驚いた。私にとってそのようなたぐいは、不確定なものによって人の不安や悩みをあおり、都合よく人をコントロールするイメージが強かったからである。「なぜ自分の妹が?」、とても理解できなかった。私は動揺し妹が心配になり、その集まりに出席することにした。



集まりの場所は表参道だった。私は向かいながら、その場所にどんな光景が待っているのか不安だった。教えられたビルの一室にたどり着き、恐る恐る中に入った。中に入るとテーブルやソファがあり、とても大きなリビングの様な部屋だった。テーブルにはバイキング形式で食事が並び、大勢の人達が集まっている。各々、ソファや広いテラスで飲み物を飲んだり、食事をしたり、まるでホームパーティーの様にみんな楽しそうにしていた。



すぐに妹がやって来た「久し振り♪」と抱きつかれ、「皆さん私の兄で〜す♪」と紹介された。妹はすぐに「ごめん、ちょっと仕事があるから。後で戻ってくるから、ゆっくりしていってね♪」と、別の部屋に入って行った。私は1人になり、どうしてよいか分からなかった。するとすぐに人がやって来て「初めまして、妹さんにはお世話になっています」と声をかけられた。私は何を話せば良いか分からず「こちらこそ、妹がお世話になっています」と返した。



それから次から次へと人がやって来た。みんな同じように「妹さんには感謝しています」とか言っていた。名刺をくれる人もいた。名刺には名の通った会社も多かった。自分の知る妹は、弱っちく、いつも心配な妹だったのに、ここでは皆から感謝され慕われている。そして皆ごく普通で、ごく普通の会話をしながら楽しいでいる。その中で私だけが戸惑っていた。



時間も経ち、妹が別の部屋から出てきた。「では、みなさん集まってくださ〜い♪」と言うと、みんなが妹の周りに集まった。私も何が始まるか分からずに輪に入った。「では、今から皆さん目を閉じて感じてください」と妹が言った。妹を中心にみんな静かに目を閉じ、頭を下げた。私は同じように従いながらその様子を薄めで見ていた。みんな真面目に従っている。しばらくすると「はい、終わりです」と、その儀式?は数分で終わった。その時、正直やっぱりおかしいと思った。



それが終わり、帰る人達も出てきたので、私も帰ることにした。「じゃあ、俺行くな」と妹に言った。「今日は来てくれてありがとう。久し振りに会えて本当に嬉しかった♪」と言われ、他の人達からも「今日はお兄さんに会えてよかったです♪」と言われて部屋を後にした。帰り道、頭の中は混乱していた。想像していたあやしい宗教的なものは感じなかったが、やはりおかしいと思っていた。とにかく妹があのような事をして、さらに多くの人が妹を中心に集まっていることがとても理解できなかった。



妹のことが頭から離れず「妹は何時からあの様なことをしているのだろう?」「なぜあの様な事になったのだろう?」と考えていた。妹に直接聞けばすむことかもしれないが、妹のやっていることを批判するようで、聞けないでいた。そんなある日、突然、「そうだ!そうだった!」と頭の中に1つの事がよみがえった。そういえば妹は幼いころから怖い霊を見たり、金縛りに合って苦しんでいた。小さい頃からよく夜中に突然叫び、泣きながら父親や母親の寝ているところに行っていた事を思いだした。



そんな妹だったが、見た霊の話はけっして自分からは言わなかった。「言えば思い出して怖くなる」のが理由だった。そんな妹に対して自分はよく「いいから言え!」と言っては、無理やり見た霊の話をさせ「ちくしょう!妹を怖がらせやがって!」と何の解決策もないのに、1人で頭にきていたことを思い出した。今思えばずいぶんかってで、傲慢な兄だったと思う。私はそのことをすっかり忘れていたのだ。ひどい兄である。



妹に思い出したことを伝えたくなり、電話した。「俺だけど、話したいことがあるから会えないか?」と、横浜で待ち合わせをした。妹は「この間は来てくれてありがとう♪」と言って、二人で喫茶店に入った。さっそく思い出したことを妹に伝えた。その話をすると、妹は今の仕事のいきさつを話し始めた。



妹はやはり幼いころから霊的なものを感じ、見てきたと言う。ただ、自分では当たり前のように見えることが、他の人には見えず、友人などに話をすれば変な顔をされ、気持ち悪がれた。しだいに自分は頭がおかしいのでは?じぶんはキチガイではないのか?と思い始め、なるべく誰にも言わないようにして来たらしい。精神的にもいつも不安定で、とても辛い日々だったと言った。



そんな妹が仕事先で、たまたま同僚から霊的なことを相談されたらしい。相談に乗ってあげたらすごく感謝され、それをきっかけに隠すことをやめて、すなおに自分を認めてその分野を勉強したりするようになったと言った。すると自然に色々な人の相談に乗るようになり、現在に至ったことを話してくれた。



私は全てを理解できた。忘れていたことを妹にあやまった。そして、誰にも言わなかった10年前の事故と、霊的な体験のことを話した。話し終えると「やはり俺は助けられなかった子に、怨まれているのだろうか?」と聞いてみた。すると妹は「見てもいいの?」と言った。「ああ、頼むよ」と言うと、「手を出して」と言われた。言われたとおりにテーブルの上に手を差し伸べると妹は手を握り、静かに目を閉じた。喫茶店で兄弟が黙って手を握り合う光景を一瞬恥ずかしいとも思ったが、私も静かに目を閉じて心を落ち着かせた。



しばらくすると妹が手を離したので、私も目を開け妹の顔を見た。目が合うと妹はニッコリ笑って「違うよ♪」と言った。「あのね・・・」妹はそのまま話を続けた。「彼女は自分が亡くなる最後の姿を誰も自分の両親達に話をしてくれなかった。でも、お兄ちゃんがその話を彼女の両親にしてくれたので、とっても感謝して時々会いに行ってたの」。



「そして、あまりにも家族が悲しんでいるので、心配でなかなか天国に行くことができなかったみたい」「最後にお兄ちゃんが彼女の姿を強く感じたのは、やっとお母さん達も落ち着いて、彼女も安心して天国にいくことになったから、最後にお兄ちゃんに挨拶に行ったんだよ♪」と言われた。その瞬間に心が軽くなった。まるで病気で思うように動けなかった体が、突然治ったような感じだった。苦しみからやっと解放された気がした。



妹を住まいまで送りながら、二人で色々と話をした。送り終えると私の頭の中には、彼女がご両親達を心配していたこと、そして安心して天国に行ったことをご両親に伝えたい思いが強く湧き上がっていた。



でも、もう10年以上も昔の話である。すでにご両親は悲しみから立ち直り、日々の生活を過ごしているだろう。いまさら彼女の話をすることは悲しみを掘り起こすことになるかもしれない。そればかりか、「天国に行った」などど、妹から聞いたいきさつを話せば変な人に思われるかもしれない・・・・・・。

でも伝えたい思いと、迷惑や変な人に思われるかもしれない思いが交差しながら、日にちだけが過ぎていった。



妹から話を聞いて1年半が経った。いまだに頭の中で悩み続けていた。

それに、ご両親の連絡先も知らなかった。

そんな時、名刺の整理をしていたら、事故を担当した弁護士の名刺が出て来た。

その名刺を見た時、私は思い切って弁護士にご両親の連絡先を聞こうと決心した。

もしそれで個人情報に関わることなので断られたら、それはそれであきらめがつくし、私の思いも整理できると思った。



弁護士の事務所に電話をする時、事務所が移転などして連絡が取れない事を願う自分もいた。でも電話は通じ、本人が電話に出た。私は「ずいぶん昔のことですが、12年前のダイビング事故の事を覚えていますか?」と話を切り出した。弁護士は事故の事はもちろん私のことも覚えていた。それでも「今さらなんでこの人が?」という雰囲気の声は感じた。私は余計なことは言わずに、ご両親の連絡先が知りたいと伝えた。弁護士の方は仕事柄なのか、理由を何も聞かずに「先方に了解の確認を取ってからご連絡しますと」と言って電話を切った。私は「これでもし、了解が取れなければそれで良い」と思った。とりあえず、行動はしたのだから、あとは自分の思い出にするだけだと。



翌日、弁護士の方から電話が入った。「先方の了解が取れたので、電話番号を教えます」と。私は電話番号を控え、電話を切った。それから又、困ってしまった。今さら何て電話をすれば良いのだろう?でも、弁護士の方から連絡がいっているのだから、電話をしないわけにもいかない。

数日後、私は決心して電話をした。



「弁護士の方から連絡が入っていると思いますが、ずいぶん時間が経ちましたがお線香をあげに伺いたいと思って・・・・」。電話に出たのは亡くなった彼女のお姉さんだった。「両親の都合を聞いて後日折り返しお電話します」と言われた。後日、連絡があり、住所を聞き、4月16日の昼過ぎに伺う約束をした。



2008年4月16日、私は複雑な気持ちでバスに乗っていた。これから会っても、どこまで話をすれば良いのか?どうやって話をすればよいのか?まだ悩んでいた。それどころか会いに行くこと自体が間違いかもしれないと思っていた。



教えられたバス停で降りて、住所を頼りに家に向かった。家が見つかり、呼び鈴をならすと中からお母さんとお姉さんが出迎えてくれた。

居間に通されると、お父さんも居た。私は居間にあった彼女の写真が置かれている仏壇を見つけ、「お線香をあげさせて頂いて良いですか?」とお願いすると、「どうぞお願いします」と言われた。

彼女にお線香をあげ、「ずいぶん時間が経ってしまったけど、ようやくお線香をあげに来ることができました。あの時は助けられなくてごめんなさい」と声に出して手を合わせた。心苦しい気持ちもなく、自分の気持ちを伝えることができた。



お線香をあげ終わり「お久し振りです。いまさら突然おじゃましてすみません」と言うと「こちらこそ、あれから一度もお礼の連絡もしないで、すみませんでした」と言われた。



「本当はもっと早くお線香をあげに伺いたかったのですが。実は私もあれから自分なりに事故のことがショックでなかなか来ることが出来ませんでした。もっと早く水中から引き上げることが出来たら、助かっていたかもしれなかったし・・・・・・」私はゆっくりと話をはじめた。もし途中で変な顔をされたり、今さらそんな話は聞きたくないような雰囲気を少しでも感じたら、余計な話はもちろん霊的な話もしないで帰るつもりだった。




話をしている間、誰も何も言わなかった。真剣に話を聞いてくれた。私は結局、自分が体験したことを全て話し、彼女が家族を心配していたことも、安心して天国に言ったことも伝えることが出来た。



話が終わる頃にはお母さんもお姉さんも静かに涙を流していた。私の話が終わると泣きながらお母さんが言った「あの子はバカね。鷹野さんのところに出るなら、いつだった私のところに出てくればいいのに。ごめんなさいね、長い間、鷹野さんを悩ましてしまって」「でもあの子は良かったわね、最後にこんな人に助けてもらえて」と泣きながら言ってくれた。その涙は12年前の悲しい涙とは違っていた。その姿と言葉を聞けた時、私は話しをしに来て良かったと思った。



それから色々と話をしてくれた。

彼女は活発な子で、友達も多かったこと。

防波堤で叫んでいた親友の子も、あれから結婚して今では外国に住んでいること。

妹は亡くなってしまったけど、お姉さんも結婚して旦那さんとお母さんとお父さんと、家族4人で楽しく過ごしていることなど・・・・・。



私は最後にもう一度、彼女にお線香をあげて帰ることにした。帰り際に、お母さんとお姉さんから「気持ちですけど」と封筒を差し出されたが、もちろん受け取る理由はなかった。それどころか、自分の話を聞いてくれた事に感謝していた。

来て本当に良かったと。


 あとがき




彼女にお線香をあげてから1年以上が過ぎ・・・・・・この話を書くことにした。


あれから妹とは霊的な話はしていない。


私は妹が感じる世界を感じることも、見ることも、できない。


今思えば、妹が言った言葉が真実か、どうかも私にはわからない。


もしかしたら、妹が私の思いに合わせてくれた、作った言葉かもしれない。





ただ、妹を含め、あの時に重なった様々なものが私を彼女の家へと向かわした。


結局のところ様々な存在は自分の中にあると思う。


自分が感じるものを感じることかもしれない。





自分は何も出来なかった


でもそこには何かが残った・・・・・・・・・・・・・それでいいと思う。